松岡亮二 著書
「教育格差」(ちくま新書)
なかなかボリューム感のある内容でしたが、非常におもしろく、あっという間に読み終わりました。
これは、簡単に言うと、家族の学歴、住んでいる地域などの観点から、大学進学率などの調査をすると、そこに大きな格差があったという内容です。
一見すると、差別を助長しかねない内容に感じられるかもしれませんが、そういうわけでなく、統計的に見て、結果そうであったという事実の報告になります。
やはり、常々言われていることですが、まず、幼児期の教育の差が大きいようです。
小学校に入るまでなにをしてきたか。
小学生になる前から、こどもたちの間には経験の差があり、それはもちろん、能力の差にもなります。
しかし、義務教育の間は、ある意味平等に、一定の教育の提供がある。
そもそも能力差があるところに、一定の教育を受けたとして、
全体のそこは上がるけども、もとからあった差は埋まらないというものでした。
そもそも、学校教育とは、社会に適応できる人間に育てていくということも大きな目標のひとつです。
みんな一緒に、平等な教育をうけることは、いいことかもしれませんが、
もう社会は、みんな一緒にの時代は終わっています。
多様な価値観、人生観があふれ、人それぞれの時代です。
みんな一緒にを続けてていいものなのか。
また、地域に大学生が多くいたり、大学があったり、進学校があったりと
こどもの頃から無意識に進学をイメージする地域と
そうではない地域があります。
こどもたちが自分の将来をイメージできるかどうかにより、
学ぶ意味や価値の感じ方に差が生じ、
都市部と地方では、こどもたちの学習への取り組み方に格差があります。
これは、もちろん、こどもだけではなく、大人も。
情報の格差、機会の格差と言ってもいいのかもしれません。
将来どうなっていくかの展望を大人もこどもも持っていない。
社会の変容や、今後社会で生きていくうえで必要な能力も見れていない。
しかし、多くの企業は都市部に位置し、
格差があろうがなかろうが、都市部と地方の人間は競い合わないといけなくなります。
自由な時代になりました。
好きなことを仕事にする、自由な働き方を認めるなど、聞こえの良い言葉ばかりが飛び交います。
しかし、ふたを開けてみると、格差を生んだまま、義務教育は終了し、その後の人生はいわゆる自己責任、自業自得の世界です。
義務教育やそれ以前に、地域や環境の格差があるにもかかわらず。
もっとひどいのは、そういった差を義務教育が生みだしているにも関わらず、
提供される教育を超えようとすると問題視されることです。
吹きこぼれ児童と言われるようになって久しいように、能力があればあるで公立学校では疎外感を感じることになります。
SNS等にもよくあげられるように、まだ習っていない漢字や式を使うことにより間違いとされることもあるようで。
このように教育、勉強について学校が手綱を握っているのが現状です。
家庭学習も、宿題が出されることにより、
(環境的に進学を見ていない)保護者は、
勉強は学校に任せておけばいいとなります。
その宿題にどれだけの効果があるかなど検証をせずにです。
(むしろ、その宿題をするしないをめぐって家族関係の悪化にもなる)
こどもも、学校に行って、宿題しておけばいい程度にしかなりません。
しかし、先ほど言ったように、義務教育をただ受けるだけでは、既にできている格差は埋まりません。
そもそも環境要因によって生まれた格差があり、
公的教育が介入だけでは埋まらず、
公的教育の方法によって、こども、保護者ともに勉強の主導権を失った挙句、
うまくいかなかったら自己責任、自業自得となる社会になってしまっているのです。
学校教育を批判するつもりはありません。
日本の義務教育により、日本人全体の学力が底上げされているのは事実だからです。
しかし、
いま信じている【ふつう】は普通でないかもしれず、
その挙句、自己責任として返ってくるのであれば、いまなにをすべきかということを知るべきです。
周りの友達が家に帰ったらゲームをしている【ふつう】か
進学を目指している友達ばかりの【ふつう】か
しかし、僕はどちらにしろ、こどもたちが自己選択すべきだとは思います。
勉強をするにしても、しないにしても
ですが、いまのこどもたちが正しい情報を得て、自己選択できているか
おとなが正しい情報を基に自己選択できる環境をつくっているかは疑問が残ります。